プロフィール

ライフコーチ

フランス在住歴15年以上、海外との仕事歴10年以上の経験を持つ。

20~40代にかけてキャリア・ライフステージの変化毎にコーチングを受け、
2022年トラストコーチングスクール認定コーチとなる。
海外展開プロジェクトパートナーとしても活動。

自分の人生を好きになりたい長女気質の女性・
内向型コツコツタイプの経営者・事業者・表現者の方や、
日本と海外の文化・生活の質を高めるプロジェクトをサポート。

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目次

こんな人です

得意・興味のあること

  • 会社員時代、上司に大まかなゴールや目標を指示されたあとは、全部任される仕事の進め方が好きでした。
  • データ処理などのルーティンワークを、エクセルやワード等を使って、効率化させることも好きでした。
  • 趣味はピアノ。2020年9月からピアノを習い始めました。
  • 体と心が健康であること。食べるもの、考えること、体を動かすことなどに気を付けています。
  • 興味や目標を持ったら、取り組めることを考えて実行する事。
    • TOEIC950点達成を目標にし、達成しました。
    • 海外就職を目標にし、達成しました。
  • 道端で良く道を聞かれます。
  • 実現したいことは、人々の生活の質を上げること。

強み

  • したいことを見つける力。
  • 興味を感じたら、とりあえずやってみる力。
  • 全力でやってみても出来なかったら、切り替える力。
  • 自分の状況を第三者目線で見る力。
  • 好きなことを自分のペースで楽しむ力。

苦しかったこと・辛かったこと

  • 小さい頃、将来は外資系客室乗務員になりたいと思っていました。なかなか受からず、専用スクールにも通いましたが、年齢上限の25歳に諦めました。
  • 25歳頃、フランスで、英語で、経営学修士を取りたいと思い、約3年間入学資格取得に挑戦しましたが、コツをつかめませんでした。
  • 両親離婚後、約30年、自分の中の折り合いがつかず、悩んだことがあります。
  • TOEIC目標点の達成に10年以上かかりました。達成後に燃え尽きてしまい、以降更に10年以上、英語との関わり方に悩んだことがあります。(『結果』ではなく、『過程』を楽しむことで、英語学習の燃え尽き期から抜け出した話

好きな言葉

  • Joy(喜び)
  • If it’s a good idea, go ahead and do it. It’s much easier to apologize than it is to get permission. ーGrace Hopper, American computer scientist and U.S. Navy admiral(好いと思ったアイデアはすぐに試そう。許可を得るより、謝るほうがよっぽど簡単。)

If it’s a good idea, go ahead and do it.
It’s much easier to apologize than it is to get permission.

好いと思ったアイデアはすぐに試そう。
許可を得るより、謝るほうがよっぽど簡単。

Grace Brewster Murray Hopper, American computer scientist and U.S. Navy admiral
グレース・マレー・ホッパー(コンピューター科学者・アメリカ海軍准将)

略歴

日系部品メーカー
社長秘書 兼 社内広報

会社トップと女性上司の傍で、会社経営について学ぶ。

外資系機関
消費者向け広報 兼 マーケティングアシスタント

外資のビジネス文化に触れながら、マーケティング・社外広報のやりがい、英語での意思疎通の楽しさを知る。

日系家庭用レジャー機器メーカー
フランス人社長秘書 兼 フランス向けマーケティングアシスタント

戦略・マーケティング畑出身の多忙な上司のもとで秘書業務をしながら、
データ分析や、重要商品のマーケティング戦略設計のアシスタント、通訳・人事アシスタント等を経験。
新規顧客開拓向けニッチ商品のウェブマーケティングを担当。

起業
マーケティングコンサルタント

フランスに活動拠点を置き、日本の企業向けマーケティング・広報活動を支援するためマーケティングコンサルタントとして起業。

英語での意思疎通や他社との提携提案もサポートし、日本の顧客と海外関係企業間の信頼を構築。

起業
ライフコーチング・英語コーチング

『人々の生活の質を高める』をミッションに、国、言語、年齢、性別にとらわれることなく可能性に挑戦するひとりひとりのお手伝いをするためにサービス提供中。

  • 英語コーチング
  • ライフコーチング

学生時代から起業までの経緯

まれ

電気製造会社勤務の技術職の父、文化服装学院卒で洋裁家の母のもとに生まれました。

当時の日本は高度成長期。
父は欧米赴任や出張が多く、日本にいるときでも、深夜前に帰宅することがしばしばありました。
母は、時々近所の人から頼まれた服を仕立てたり、妹や私の服を作ったり、日中や私たちを寝かしつけた後もよく洋裁をしていました。裁ちばさみの音、ミシンの音、霧吹きの音などがいつも心地よかったのを覚えています。

幼稚園で習い始めたピアノを1年ほどでやめるくらい、友達が大好きな子でした。
水が大の苦手で、お風呂でのシャンプーも、プールも怖かったです。

学生時代

英語を好きになったきっかけは小学生時代。時間を忘れるほど

父の影響で、英語やインターネットに早くから興味を持つようになりました。海外と初めて接したのは小学生の時。だんだんと、将来は外資系客室乗務員になって海外生活しながら世界中を飛ぼう、と思うようになりました。

家族や友人とも話せなくなった中学生時代

中学生時代、英語の授業がとても楽しくて、むさぼるように予習や復習をしていました。 勉強は全般的に好きでしたが、5教科中に1つ、どうしても苦手な教科がありました。 中学校担任の勧めで、進学校をあきらめ、商業高校に推薦されました。
中2の時に両親が突然離婚し、父側に引き取られました。
家事全般を担当するといっても、それまでにしたことがあるのは掃除と洗濯くらいのもの。料理のことで父としばしば喧嘩することがあり、料理が苦痛に感じるようになりました。
離婚のショックで、心を許せる人以外、親や周りの人を避けるようになりました。

色んな人との出会いで道がいくつも開けた高校時代

高校に進学し、高校でも暇さえあれば英語の勉強か、部活の毎日でした。 海外姉妹校との交流代表、英語スピーチコンテストなど、様々な機会をオファーされました。 たくさんの大切な人との出会いもありました。
卒業後は短大英文科進学を当初検討していましたが、高校の勧めで、関西私立4大学内の1つへ指定校推薦していただけることになりました。

大学の学部は、指定校推薦枠で予め決められていた、経営学部でした。
客室乗務員になって、ファーストクラスやビジネスクラスのお客様をもてなすことになった時、
ビジネスの知識が役立つかもしれないし、退職後は経験を活かして秘書をしようと考えていました。

私の通っていた高校と特定の大学が連携する指定校推薦は、いくつかの推薦先大学ごとに、毎年1人が対象となり、数年以上前から続いていた制度でした。 推薦してくれた高校に卒業後も迷惑をかけないように、後に続く人たちのために指定校推薦制度が来年以降も継続されるように、大学ではきちんと授業を修めようと思いました。 大学創立記念時に、成績優秀者の一人として選ばれて表彰され、その年の学費の半額を免除されることになりました。

短期語学留学先でカルチャーショックを受けた大学時代

2回生の夏休みにイギリスに1か月半の短期留学をしましたが、
欧州から語学スクールに来ているお友達の英語レベルは高く、
ネイティブの話す英語はアクセントがあってわからないなど、
私の英語レベルはほとんど通用しませんでした。
悔しくてホストファミリーの前で泣きました。
日本に戻った後、心を入れ替えて英語を勉強するきっかけになりました。
3回生の夏休みはフランスにも1か月半の語学留学をしました。
フランス語は文法が英語以上に細かく、授業に苦労しました。


大学3回生の頃から、航空会社へいくつか応募していましたが、書類は通りませんでした。

社会人

先の見えない苦しい時期を過ごした更なる1~2年

大学卒業後は親の希望もあり、地元の会社の海外営業職に就職しました。

色々なことが自分の中で折り合いがつかず、入社後間もなく、退職を決めました。

ありがたいことに後日、その会社の社長から声をかけられ、
社長秘書 兼 社内広報として再入社させていただけました。

会社トップのそばで仕事させてもらえたことや、
上司が尊敬できる方でしかも女性でだったことなど、たくさんの刺激を受けました。
一方で、英語を使うことや、国際的な仕事への希望がますます強くなり、また、客室乗務員も諦められずにいました。

東京・外資系就職先での出会い

その後、航空会社の入社受験会場は東京が多かったこと、 海外に行くためにお金を貯めたいと思ったことから、 思い切って上京を決め、客室乗務員の募集を待ちながら、 外資系団体でB2C(消費者向け)マーケティング・広報アシスタントを担当させてもらえることになりました。

そこでも、上司が女性という機会に巡り合えました。

上司は英語も仕事もできるだけでなく、料理も上手な方でした。 器が家じゅういたるところにあって、収納場所に困るほど、とよく話していました。 ある日、「イメージに合うから」とイギリス製のマグ&小皿をプレゼントしてくださいました。 マグは壊してしまいましたが、小皿は10年以上たった今でも大切な思い出として使っています。

器好きになったのは、その上司の影響です。

夢を断念した時、渡仏の道が開いていきました

私が第一志望にする外資系航空会社には受験の上限年齢がありました。 客室乗務員募集は不定期に行われていましたが、 上限年齢に達した年と同じ年に、幸い募集がかかりました。 一次面接に通りましたが、二次面接で失格となりました。 この受験を最後にしようと決めていましたので、 自分で決めた通り、客室乗務員の夢を断念することにしました。 外資系団体でのB2Cマーケティング・広報アシスタントの仕事は、 周りの人に恵まれ、仕事もやりがいがありましたが、 自分の本当にしたいことはこれなのだろうかと感じている部分もありました。 アシスタント職からキャリアアップしたい気持ちもあり、 資格取得したらそれが実現できるかもしれないと思い、 CPA(米国公認会計士)か、海外MBA(経営学修士)を考えるようになりました。 ビジネス関連の修士を取りたいともともと思っていたこともありました。 仕事休みの週末は、インテリア雑貨や食器のお店に出かけることがよくありました。 どこから来た雑貨・食器なんだろうと、それらが作られた国も確認する事が通常でした。 そしてある日、あることに気が付きました。 それは、お店を変えても、気になって手に取る雑貨や食器が全て、フランスから来ているということでした。 自分とフランスとの関連を感じるようになりました。
親の離婚以降、色々な苦痛が積み重なり、日本から逃れたいと思う気持ちも強くなっていました。

MBAはフランスの学校を考えていました。 フランスでも英語で授業をしているところがあります。 雰囲気を知る為、飛行機チケットを取り、休みをもらって、本命のビジネススクールの2校に下見に行きました。 大学生時代に知り合ったフランス人の友人にも会い、 ビジネススクールなどについて色々と一方的に熱く話したのを覚えています。

2007年、結婚を機に渡仏し、フランス語の学校に約1年通いました。

英語力はつきましたが、また目標叶わず

並行して、ビジネススクールの受験準備を続けていました。 特に2つの受験応募規定がありました。
①TOEIC950点以上であること ②GMAT600点以上であること
TOEICは950点以上をクリアできましたが、 GMATのスコアは、2~3年かけても、全然伸びませんでした。 フランスに来てからもその勉強を続けていて、スコアを伸ばすためのスクールにも通いましたが、 結局全く変化がなく、その兆候も表れないことがとても辛くなり、 GMAT受験結果を見る度に精神的負担を感じ、 日常生活でもやる気が下がるようになりました。 MBAを諦めようと考えるようになりました。

長男の出産を機にキャリアを断念した時、転機が訪れました

フランスで仕事を探すようになり、 各種企業のマーケティング職に1年間で約100通の履歴書を送りましたが全然手応えがありませんでした。 長男出産を機に、キャリア転換を考え始めたところに、 日本の有名企業からフランス人社長のアシスタント職をオファーされました。
上司は今まで出会ったビジネスパーソンの中でも、決断スピードが圧倒的に早い、頭の回転が速い上司でした。 また、秘書職以外にも、データ分析、戦略分析、通訳、人事アシスタント等、色々なことを信頼して任せてくれました。 ある日、マーケティング補佐としてニッチ商品のSNSコミュニティ運営を、全面的に任されたことがありました。 その後、マーケティング部とアイデアを出し合いながら施策を行い、 コミュニティは欧州他国の該当商品のコミュニティと比較して欧州一の規模になり、 売上も欧州一となったことに関わらせていただけました。 他国のマーケティング部から「どうやっているの?やり方を教えて!」と言われるようになりました。

主人の地方転勤を機に、退職させてもらうことになってしまいましたが、 その元上司が欧州社長に昇進したというニュースが流れた時に、お祝いのメッセージを送りました。 「君のお陰だよ」と、お世辞でも言ってもらえたことは嬉しい思い出です。

社会人学生

地方へ転居した際、マーケティング専攻の修士号が取得できる、 1年間のパートタイムプログラムを提供するビジネススクールがあることを知り、 転職活動を行いながら通うことにしました。 友人に助けてもらいながらインターンを終了し、 主人に助けてもらいながらフランス語の論文を仕上げ、 無事に修了することができました。

起業に至った経緯

色々な失敗をして思うことは、
『他人に羨ましがられるからという気持ちが見え隠れする道に出口はなく、自分が心から望んだ道には先がある』
『手放したときに転機が訪れる』
ということです。

転職活動の度に、職を得られないのは私の学歴のせいだろう、と思っていました。

修士を得て気づいたのは、
今まで思い込みに縛られていたことと、
学歴に原因を求めることで、本来直視すべきことを直視していなかったことでした。

仕事から離れている期間、効率とは対極にある『子育て』という、
誰からの評価もない、成果を数値化できない活動が、
自分と向き合う機会を与えてくれました。

起業のきっかけをくれたのは、日本にいる大学時代の友人でした。

子どもたちのお陰で料理の楽しさを知りました

修士修了後、時間にゆとりが生まれ、
色々な料理を調べたり、作ったりする機会が増えました。
作ってみたいと思うものをPinterestを眺めて探すことから始め、
子どもの「美味しい」を聞く回数が増えるにつれて、
嬉しさが積み重なっていきました。
料理が得意と言えることはきっと一生無いだろうと思いますが、
料理楽しいと思えるようになったのは、35歳頃だったと思います。

わだかまりが薄くなり、親も日本も大切な事に気が付きました

次男が3歳になる年、日本に約10年ぶりに一時帰国しました。
久しぶりに会った父と母の姿に時の経過を感じ、
それまで抱えていたわだかまりが馬鹿らしく思えました。
親や地元、日本を好きになることはないだろうと思っていましたが、
好きな場所だったことに気が付きました。
自分に何か出来ることはないだろうかと考えるようになりました。

その後、友人が声をかけて起業することになりました。

苦手な水を克服し、やめたことを後悔していたピアノを習い始めました

38歳の2018年、水泳を習うことにしました。
水に対する恐怖がなくなり、1時間でプールを数往復できるまでになりました。

40歳になった2020年、友人が乗馬を始めたことに触発されて、私もピアノを習うことにしました。
上達を信じてくれるピアノの先生のお陰で、クラシック曲に挑戦させてもらえています。

息子のお陰で、大好きなことを人のために活かしたいと思うようになりました

2020年4月、外出規制で約1ヵ月間、必要以外、家から外出できない日が続きました。
誰かに外出の自由を奪われるというのは非常に苦しいものでした。

「もし明日が最後の日だとしたら今日をどう生きるだろうか?」
と思うようになり、
「好きな人に囲まれて生きたい。
好きな人に囲まれて仕事をしたい。
今までは自分の評価のためにしか仕事をしてこなかったけど、
これからは人のために役に立つことをしたい。」
と感じるようになりました。

特に具体的な答えが出ないまま過ごしていたある日、
中学1年生の息子の英語の土台が弱いことに気付き、
英語を約1か月教える機会がありました。

その後、嫌いだった英語の先生から学校で褒められることがあったそうです。
以来、息子は自主的に英語の勉強に取り組むようになり、英語が好きだとも言うようになりました。

人は思い込み次第で変われる瞬間を目の当たりにし、
英語で人の役に立てるのではないかと思うようになりました。

こんな未来を描いています

子どもたちの子どもたちも豊かに暮らせる社会

私が思い描く未来は、 国、言語、年齢、性別にとらわれることなく可能性に挑戦するお手伝いをすること。
そのひとりひとりの挑戦を世の中に増やすこと。

人や物事のなかに可能性を見出すこと。

人々の生活の質の向上に貢献すること。

あえて挑戦を選ぶ人、⁠挑戦を面白がる人、自ら行動をおこす人たちがたくさんいる社会で育つ子どもたちは⁠、やろうと思えばなんでもできることを感じながら、大きくなるはずです。

お客様の伴走をさせていただきながら、子どもたちの子どもたちも豊かに暮らせる社会づくりに貢献します。

マガジンでお会いできるのを楽しみにしています

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