目に見えるものだけが全て、ではないかもしれない
子どもたちが週末の数時間、
日本語講座を受けるようになって、約5年になります。
現地校の授業と宿題だけでなく、
日本語の授業でも宿題も出るし、
日本語の授業では本来なら休みのはずの時間を削られる。
子どもたちは、自分たちの置かれた状況を、
他のフランス人のお友達に比べて不公平だと感じることがあるようです。
そんな時は、
「私たちの目に見えるものだけがすべてとは限らないよ。
私たちの知らないところで、他のフランス人のお友達も、何かを頑張っているかもしれないよー」
と伝えるようにしています。
他の人より秀でているものがある人は、その人が努力をしているから
他の人より少し秀でているものがある人や、
他の人より少し上手なものがある人は、
その人が、他の人よりも努力をしているからだと思います。
ただ好き、ただ楽しい。
努力している本人は、努力を努力と思っていないかもしれませんね。
時には「日本語なんていやだー!」
と、子どもから愚痴をこぼされることも
今まで何度もありましたし、今でもあります。
子どもが小さい頃は特に、
それを聞くたびに、何度も悩み、
めげそうになりました。
私はまだ幼稚園の頃、お友達と遊びたいがために、ピアノの習い事を直ぐにやめてしまいました。
その数年後からずっと、
なぜピアノをやめてしまったんだろう、
親はどう思っていたんだろう、
なぜ引き留めてくれなかったんだろうと事あるごとに思い、
ピアノをやめてしまったことを何年も後悔することになりました。
その経験があるため、
まだ周りのことも、やりたいこともわからない年齢の場合、
習い事をやめたい理由が「何となく嫌だから」ということなら、
どんなに心が痛くても、親の踏ん張りどころだと思っています。
どちらかというと、「日本語を絶対に習わなきゃだめだ!」と言うパパに支えられたのが正直なところです。
もう何年も日本語を頑張ってくれている子どもたちの姿を見ると
ありがたい気持ちでいっぱいになります。
それから、日本語を子どもたちが学ぶべきものと捉えてくれている、理解のあるパパにも。
可能性をどう楽しみ、どう活かすか
生まれつきの才能や恵まれた環境だけに全ての結果が委ねられているのではなく、
私たちの体力や意思、可能性は基本的に誰に対しても同じものが与えられていて、
自分がそれをどう楽しみ、活かすかで、どんどん結果を変えていけると思っています。
心から「それをしたい」と望んでいて、
それに向かって楽しみながら取り組んでいる人の姿は輝いてみえます。
あなたは人の見ていないところで努力するタイプですか?
それとも誰かと一緒ならもっと頑張れるタイプですか?
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